2026/8/9 homily

260809 マタイ14:22-33

鶴山師

私は週に何回かカトリック中央協議会やバチカンニュースのウェブサイトを閲覧します。そして教皇レオ、そして教皇フランシスコの説教や講話あるいは祈りを読みます。そして心に留まった言葉に留まります。例えば毎月、教皇の祈りの意向がバチカンニュースに掲載されます。今月の祈りの意向は「都市の中の宣教」でしたね。皆様の中でもすでにご覧になった方もいらっしゃると思います。今月の教皇の祈りの意向・祈りの言葉の中で私が心に留まった言葉は次の語句です。「単純で身近な行いに具体化されますように」。「わたしたちを外に向かって出て行く教会にしてください」「周縁の人々に手を差し伸べ」「孤独の中に慰めをもたらし」、「無関心が広がる場所に兄弟愛の種を蒔くことができますように」これらの心に留まった語句を一つずつ繰り返します。目や頭に留めるのではなく、心に奥深く、あるいは手足の指先までメッセージを行き届かせるイメージで時々、黙読し時間を取ります。

今日の福音を黙想してまず心に留まった個所は23節・24節「祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になってもただ一人そこにおられた」。イエス様は御父の御心を行われました。でも神の子イエス様でさえ祈りの時間を取られた。弟子たちと離れて、御父とイエス様だけの環境を作って御父との繋がりを確認しておられた。 

私達、教皇あるいは教会から出される種々のメッセージを読んで、「そうだな」とか「ぜひ実行したいな」と思います。でも自分の努力だけでできることは高が知れています。祈りの方法はいろいろだと思いますが、祈りとは神様と繋がること、イエス様と繋がることでしょう。この繋がりがあってキリストを生きるという事が形になっていくんだと思います。

そして今日の福音でもう一つ心に留まった個所は29節「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」です。今日の福音では「舟は既に陸から何スタディオンか離れており」となっていますが並行個所のヨハネ福音書6章19節を見ますと「25ないし30スタディオン」とあります。1スタディオンが約185mだそうですから少なく見積もって4・5㎞以上離れている。そんなところで、まだ夜は明けきっておらず暗い時間帯であったでしょうが、舟から降りて歩こうとする。すごい勇気ですね。

ところでもう10年以上前になるんですけど、「舟から出て、水の上を歩いて」という本を読んだことがあります。著者はジョン・オートバーグさんという方です。今日の福音の箇所をテーマにした本です。本の帯の部分にこう書いてあるんです。無難に過ごすだけの毎日から一歩外に踏み出す時、その一歩が、水の上をも歩かせる大きな信仰の歩みとなっていく。

オートバーグさんの著書を読むと、そのままの状態でいるべきではない状態を舟ととらえ、舟から降りて歩きだしたらどうだ、ということが読者に伝えたいことだったんだろうなと私、理解しています。この本を読んで以来、問題や課題があるけど、何も手を付けないでいるということが自分の中にも、また周りを見渡した時にも、あるなと思う時があります。

こういったことをもとに黙想していて思い出したことがあります。20代の頃の話です。私が神学校に入る前のことです。あまり詳しいことをお話しするつもりはありませんが、当時、所属していた小教区があまりいい雰囲気ではなかったんですね。同じ小教区の青年に不満を述べていると、こういう返事が返ってきました。「問題あるって分かってるんだろ?じゃあ、どうすんの?」彼が言いたかったのは、課題や問題があるってわかってるんだったら、解決するために協力してくれよ、改善するために何かしてくれよということでしょう。つまり不満を述べているだけで何もしないなら、舟から降りない状態だ、というわけです。ちなみに、こう言われてなかったら、当時の私だったら何もしてなかったと思います。そして小教区に限らず、解決すべき問題や課題に取り組んでもなかなかうまくいかないということも少なくない。それは強い風に気付いて怖くなること、沈みかけることのようなものでしょう。私たちの人生は、舟から降りて一歩踏み出すこと、強い風に気付いて怖くなることの繰り返しだと思います。いつもうまくいくわけではない。でもある時はいい方向に物事が進む時もある。うまくいかなくてもチャレンジしようとするときに勇気を頂けること、そしてといい方向に物事が進んだ時はなおさらということになりますが、どちらも神様やイエス様がともにいてくださることに素直に感謝できるときだと経験上思います。

 

参考・引用文献  「舟から出て、水の上を歩いて…信仰という冒険への招待」 ジョン・オートバーグ著 上野五男、白石正明 訳   いのちのことば社 2009年

 

 

2026年08月11日