2026/5/24 20260517 主の昇天 (北村師)

20260517 主の昇天 マタイ28章16~20節

北村師

今日は主の昇天のお祝い日ですが、主の昇天が何であったかを解説すること自体あまり意味がありません。現代、イエスさまが天に昇っていかれたというのは、明らかに寓意的な表現であるということをわたしたちは知っているからです。主の昇天は、主の復活という出来事を体験した弟子たちが、自分たちの復活体験を表現したひとつの類型であるといえるでしょう。聖書に書かれている出来事は物語であって、現代科学の報告書のように読むものではなく、救いの真実を証しするものです。ですから、物語の背後にあるメッセージ、真実が何であるかを捉えるようにしていかなければなりません。今日の箇所では「弟子たちは…そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。そこで、信じることと疑うこと、これがいったいどういうことかという問題提起がなされています。今日はそのことを深めていきたいと思います。

わたしたちは、福音書にそのように書かれているのを読むと、イエスさまの弟子たちの中にも不信仰なものがいたのかと思い、そうだったのかと不思議に思ったり、別の意味で安心したりします。なぜなら、わたしたちも同じ問題を抱えているからです。わたしたちも信じきれないとか、信仰が薄いとか、信仰が強くならないといって、どうしてどうしてと嘆くのです。また、何か不幸なことがあると、それはわたしの信仰が弱いからだと自分を責めたりします。それは信じるということをわたしのこころの問題として捉え、疑うこともぶれることもない、確固とした信仰に留まるようにならなければならないと思い込んでいるからではないでしょうか。そして、イエスさまの弟子たちは、きっと素晴らしい確固とした信仰をもっていたに違いないと勝手に想像しているのです。

キリスト教では、信仰というと人間の意志の行為を強調しますが、そもそもわたしたち人間が疑いなく信じるということができるのでしょうか。疑いというものがあっても、わたしたちの努力で、疑いのこころが消えて、一心に信じることができるようになるのでしょうか。また、そのようになったとしても、そのような状態を持続することができるのでしょうか。そのような問いが出てくるのは、信仰をわたしのこころの状態だと考えているからです。過去の教会では、教会が教えていることを疑うことは罪で、疑いなどもたないで、そのまま信じるのがよい信者だと教えられてきました。中世ならそれでよかったかもしれませんが、現代では通用しません。なにも考えず、とにかく信じろというのはカルトと同じです。

そのようなことが起こってくるのは、信仰宣言の中でも「わたしは…信じます」というように、信仰の主体をわたしたち人間であると捉えるところからくる問題のようです。信仰を人間のもの、つまりわたしの信仰であると考えると、信仰はわたしの所有物ですから、わたしの力でどうにかできるということになります。だから人間の意志で、つまりわたしの力で、頑張って信仰を強めることができるということになります。しかし実際のところ、わたしの力ではどうにもなりません。それなのにわたしたちは自分の力で何とか信仰を強くしようと頑張るのです。人間の力でどうにもならないと、今度は権力とか権威で強要するようになってしまします。

少し冷静になって自分のこころを見ればわかることなのですが、わたしたちは信じようとすればするほど、疑いが起こってきますし、無理強いすればするほど、反発するこころが起こってきます。頑張って聞いていれば信仰が深まどころか、聞けば聞くほど疑いが深くなるというのが偽らざるところではないでしょうか。わたしたちは自分のこころの中に信仰の確証や救われた証拠を求めようとするのですが、わたしのこころを自分の力でどうこうできないのに、わたしのこころの中にそんなものがあるはずありません。信仰はわたしのこころの問題ではないのです。信仰をそのように捉えている限り、わたしたちは真実に触れることはできません。

大切なことは、そのような不信仰な、こころの定まらないわたしたちにイエスさまが近づいて来られるということです。「イエスは、近寄ってきていわれた…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」といわれました。このイエスさまのことばが真実なのだといえるのではないでしょうか。わたしが信仰深かろうが、不信仰であろうが関係ないのです。わたしがイエスさまに頑張って近づくのではなく、イエスさまが近寄ってきて、わたしとともにいるといわれるのです。このイエスさまの姿、イエスさまの真実が信仰なのです。

信じるという漢字の「信」という言葉は、もとは真理の「真」と同じ意味であるといわれています。信号機という交通標識がありますが、信号機は嘘をつきません。もし信号機が信用できないのであれば、誰も安心して道路を渡れません。そのときの信号機の信は、“真(まこと)”という意味なのです。この信号機は信じられるだろうか、信じられないだろうかと考える人はいません。わたしがどう感じるかに関係なく、信号機はいつも真実だからです。ですから、いつも安心して道路を渡ることができます。わたしがどうしたら救われるだろうか、この方を信じていいのだろかとわたしのこころの中で算段しても、信仰は確固たるものにはなりません。救いはわたしの問題ではなく、イエスさまの専権事項です。「わたしを救う」という名のイエスさまが救うといわれたら、その言葉に二言はないのです。これがイエスさまの真実、イエスさまの信ということです。だから、わたしたちが何であってもなくても関係ないのです。

そのことがわからないので、わたしは救われるだろうか救われないだろうか、わたしのこころで考え続けます。また、わたしはゆるされるだろうかゆるされないだろかと、自分のこころであれこれと考えてしまいます。イエスさまが救う、イエスさまがゆるすといわれたら、それをわたしが本当か本当でないかなどとわたしが算段しても仕方ありません。これではイエスさまを信じているといえません。それならイエスさまを試しているだけであって、これほどイエスさまに失礼なことはありません。

教会は、人間の努力や功徳によって、救われるか救われないか、ゆるされるかゆるされないかが決まるかのように教えてしまいました。そのようにしてきたこと自体が大きな問題です。イエスさまが世の終わりまでいつもあなたがたとともにいるといわれたのですから、それが真実なのです。そのことを疑ってもどうにもなりません。イエスさまはわたしと一緒にいないということはできないからです。それがイエスさまの真実だからです。わたしがイエスさまを信じる、それはわたしの疑いをなくすことでも、わたしのこころを強くすることでもありません。自分の計算や不安や思いを手放して、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」といわれるイエスさまに信頼をおくことなのです。弟子たちは、疑いながらも、イエスの前に立っていました。わたしたちも同じです。疑いがあってもよいのです。大切なのは、わたしの状態ではなく、イエスが共にいてくださるという事実です。こそが、私たちの信仰の出発点であり、真実なのです。この真実の中に、安心して生きていきましょう。

 

2026年05月24日